フラメンコと津軽民謡

芸能

津軽三味線とフラメンコの歴史を知る雑学

「記事目次」

❶フラメンコと津軽民謡は似たもの同士
❷両者の似ているところ音で聞き比べ!
❸音楽は物語、歴史を学ぶ
❹黒田長政の家来・母里太兵衛(もりたへい)

津軽三味線や津軽民謡を習いたい!フラメンコギターや踊りを習いたい!そんな音楽志向のあなたにお届けする99%の人が知らない雑学。その歴史や文化を勉強する事によってあなたの人生に役に立つ豆知識である。

🔴津軽三味線は青森県の中の津軽地方だけに伝承される郷土芸能でフラメンコもスペインのアンダルシア地方に伝わるジプシ―民謡なのだ。

海外格安航空券の専門店W.A.S.ワールドエアシステム

■地図で見ても分かる様にピンクで塗られているのが津軽地方で十和田湖や三沢基地がある地域は南部地方と呼ばれて言葉も津軽と南部では違うのである。

これは赤の境界線が示す様に八甲田山の峰々に分断されていて文化が別物になっており津軽三味線も津軽地方だけで発展して行ったものなのである。津軽三味線も元は盲目の門付け芸人で村人から蔑まされながら発展してきたものである…。

■フラメンコはスペイン地図にもある様に赤い点線で引かれた境界の所がアンダルシア地方でフラメンコが独自に発展していった場所なのだ。

遠くはインドに住んでいたロマ民族が数世紀を経てアンダルシアに移り住み迫害されながらその苦しみを表現したのがフラメンコなのである。

だから韻旋律的な曲が多いのはその為である。然し、だからこそ苦しみを表現した音曲は聴く人の心を打つのだ。

■津軽民謡・あいや節の唄い出し…

■フラメンコ・ブレリアの唄い出し…

どうだろうか?日本とヨーロッパの隔てた国の文化でありながらこうも唄い出しが酷似している事には驚きである。歴史としては津軽三味線の方は明治の初めが起源で150年ほどでフラメンコは現在の形になってきたのは200年ほど前くらいからだそうである。

写真は新潟のゴゼさん達の者だが津軽の方では同じ様に門付け芸人の人達を”ボサマ”と言って男性の盲目の人達の事を言っていた。子供の頃に失明して津軽に流れてきたはぐれゴゼさんから音曲を習い独自に発展を遂げたのが津軽三味線、民謡の起源である。

スペインは多民族国家であった時代、移動民族のジプシーは政府にも迫害をされ山岳地方に追いやられその嘆きや悲しみを唄い始めたのがフラメンコの始まりである。イスラム系のジプシーと現地アラブ系の音楽との融合が現代のフラメンコの元になっている様である。

あなたが三味線でソロライブをやる時、或いは唄で、または何かの講座で歴史知識が語れる事は一つのスキルになります。

例えば、三味線ライブで平もの民謡「黒田節」を弾き語りでやる時にこの民謡の由来を話せたら良いと思いませんか…?これは日本有名な民謡の一つで20年前には日本人であれば誰でも知っている曲の一つだった。

さーぁ けーわぁ のぉーめぇのーめ、のーむぅなぁらぁばぁぁ』の唄いだしで全国的に有名な福岡県民謡「黒田節」。黒田長政の家臣「母里太兵衛」のある逸話を唄にしたものだといわれています。

る日、福島正則の屋敷に、長政の使者として訪れた太兵衛。
彼を酒豪だと知る正則は酒を奨めますが、オフィシャルな業務として参った以上それは出来ないと断わったのです。そこで正則は、「わしの酒が飲めんとは、黒田の武士も堕ちたものだ」と罵りました。
そこでカチンときた太兵衛は振舞われた盃を正則の目の前で一気に飲み干してしまいました。
正則は彼のその男気のよさに感激し、「ほうび」として太兵衛にある槍を与えたということです。この槍が「天下三名槍」と呼ばれた槍の一つ「日本号」なのです。(福岡市紹介記事から一部引用)

黒田節の民謡はこの逸話からきているもので400年前のお話です。こうしてその曲の由来を話せることは曲を聞くに当たって理解力が増して印象に残ります。

単に曲のタイトルだけ話してその曲の云われを知らないのでは何か薄っぺらいものとなってしまう感じがします。

曲の物語を語れる様になるとこんな場面で役に立ちます。それはお店単位でのミニライブ!の時だ。私は突撃ライブ!と称して全国の飲み屋街に飛び込みで演奏する事が出来る。

いきなり見ず知らずの者がお店に飛び込み三味線を聞いて貰ってお金を頂戴するのである。これにはどんな相手にでも対応出来る喋りの術が必要であり歴史知識が役に立ってくる。それぞれの曲の物語を語るのもお金を貰うスキルの一つだ!

本物そっくり駐車違反警告ステッカー