空を飛ぶ三味線弾き?!

芸能

欲張りな人生経験

「記事目次」

❶自分の前世は鳥か…?
❷モーターパラグライダーとの出会い。
❸初飛行の体験・朝霧パラグライダースクール
❹音楽の世界から一度離れて空の世界へ
❺輸入代理店・アドベンチャージパンの設立

子供の頃に空を飛ぶ夢って見た事無いですか?私は翼も持たず夢の中で坂を駆け下りてジャンプすると体が空中にフワッと浮かびスーッと飛ぶ夢を何度も見た事がある。ふと自分の前世は鳥だったのかも知れないと思ったものだった。

写真はドイツ人のオットー・リリエンタールが1890年代に飛行実験をしている一コマだ。

昔から人は鳥の様に自由に空を飛ぶことを夢みてきた。通常、空を飛ぶ為には軽飛行機やヘリコプターの免許を取得して飛ぶ訳だがそれには1000万円以上の金を用意しなければならない。そんな金はもとより無いのでパイロットになりたかった夢は諦めていた。

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芸能事務所でパソコンを見ている時にあるBBSのコミュニティーで「あなたも鳥の様に空を飛んでみませんか!?」というメッセージを見つけた。それは埼玉県三郷の河川敷でモーターパラグライダーのスクールがあるという内容で一体どんなものなのか、現地へ直接見に行ったのである。

普通、パラグライダーと言えば山から滑空するものである事は自分も知っていたが、これにはエンジンはついていない。このモーターパラグライダーというのは背中にエンジンを背負って平地から飛び上がる事が出来るしろものだった。

つまり、いちいち遠くの山々へ出かけなくても身近な河川敷で飛ぶ事が出来たのだ!またこれには航空法で言う空中浮遊物扱いなので免許は不要である。

グライダーとエンジン機材含めて120万くらいで手に入る事が分かりローンを組んで早速に購入して練習を始めたのである。

エンジンを背負ってこの様な平地から飛び上がるには先ずグライダー(キャノピーとも言う)を自分の頭上に立ち上げて自在にコントロールが出来なくてはならない。風速2m~5mくらいの時が安定して練習が出来る。

この写真ではもう既に私はインストラクターになっていた時で生徒を指導している時の写真だ。最初はグライダーを借りてこの多摩川河川敷で立ち上げの練習をやろうと立ち寄ったが野球をやっていて練習する場所が無かった…。

やむおえず上流、上流へと探したがその日は日曜で何処の場所も野球で一杯だった。諦めきれず結局車を走らせて五日市、檜村を抜けて山梨の甲府へ下り甲府から朝霧高原まで行ってしまったのだ。

一晩、車の中で夜を明かして朝霧高原にパラグライダースクールがあると聞いてそこへ行ってみた。実にこの小山の上からインストラクターにサポートして貰い初めて一人で滑空して飛んだのが生まれて初めて自分の足が地面から離れた時だった。

この時の快感は未だに記憶があるが子供の頃から空中を飛ぶ!という夢がやっと実現した時だった。そして午後からスクールのモノレールを使って山に登り、インストラクターとタンデム(二人乗り)で飛行したのが完全に空を飛ぶ初体験となったのである。

実はこの頃から芸能関係の仕事からは景気低迷の原因もあって遠ざかり始めるキッカケにもなっていった。今まで熱海のホテル関係の仕事も激減し最終的には10年来贔屓(ひいき)にしてくれていた熱海の大月ホテルも倒産して店じまいになっていくのである。

OKプロモーションという芸能企画事務所も13年目で事務所を畳む事になり、新たにスカイスポーツ機材の輸入販売とスクーリング事業を始める事になる。

とはいえ個人的な三味線の活動は突撃ライブとして相変わらずやっていた。パラの練習には毎週と言っていいほど三郷に通い、帰りは川口方面の飲み屋で突撃ライブをやり現金収入を得て小遣い稼ぎは続けていたのだ。

エンジンパラグライダーの発祥はもともとフランスのアドベンチャー社が世界で初めて起こしたものである。私は当初、三郷の総輸入代理店の下で代理販売をする様になりエンジンユニットを個人で売ってきたが総元の評判が悪くこのままではまずいと思い、フランスアドベンチャー社に交渉し自分にも販売代理権を譲ってくれと直談判したのである。

今までの販売実績もある事と日本での事情を説明し納得してくれて総輸入代理店として認めてくれたのである。こうして今度はアドベンチャージャパンとして社名を起こし機材販売とスクーリングを運営をする事になる…。

35歳でOKプロダクションを起業してからおよそ12~3年のあいだ中小の企業ではイベントも盛んで芸能パッケージも数多く売れた時代だった…。1998年以降からモーターパラグライダーを最初は趣味でやり始めたもののフランスのメーカーと直接交渉して機材の輸入販売とスクーリングビジネスを始めだしたのである。ある意味丁度ビジネスの転換期であったのかも知れない。

教習生をタンデムフライトで体験飛行をさせている写真。操縦しているのは勿論自分です。

芸人という自分のスタイルは温存しつつ景気低迷にともなって芸能から一旦離れて10年猶予のあいだ別の世界で活動する…。

これも最初は趣味で始まりやがてテレビ局からの依頼で番組制作の一端を担うビジネスにまで発展させる。

然し、10年続けたこのビジネスもやがて次の時代の波が押し寄せて来てまた元の芸能活動に舞い戻る事になる…。