芸は自らその身を助ける!
「記事目次」
❶人生をどう生きるか?
❷感動する事との出会い
❸唄い手と伴奏者の勝負
❹津軽弘前の観桜会で学ぶ
❺津軽三味線奏者の本来の姿
人生どう生きるか?と感動との出会い!
自分の長い人生において2度感動する音楽との出会いがあった…。中学生の時に同級生が弾いていたクラシックの名曲「アルハンブラの思い出」を聞いた時が音楽に関わり始めるきっかけとなる。そして26歳の時に高橋竹山のレコードを聴いて感動したのが二度目の出会いである。
この二度目の感動が自分の人生を方向づける
この時は未だ趣味でフラメンコギターをやっていた。然し女房の実家山形で聞いた高橋竹山の津軽三味線がもの凄く印象に残りこの頃から平行して三味線を習い始めたのである。
26歳で三味線を習い始めて最初は小山流で1年通った。その後、澤田流で2年ほど習う。二人目の先生の所では三味線の上達も早く師匠の代稽古を頼まれたり地方公演などにも一緒に行き早い段階から三味線で金を稼げる様になっていったのだ。然し、名取りの話が出たものの趣味でやれればいいと思っていたので名取りは受ける事なく会を辞める事になる。
唄い手と伴奏者の一対一の勝負!
津軽三味線はもともと唄の伴奏芸から発展してきたもので唄い出しの前に独創的な前弾きを加える事によって進歩してきたものだ。
今ではテレビでもひな壇に並んで津軽三味線の大合奏が聞く人を魅了する。然し、自分は合奏隊の一人になる事を嫌って唄い手と一対一の舞台をやりたいと思った。
然し、当時は無名で無位無冠の者が唄い手の舞台に一緒に上がると彼奴(あいつ)は何者だ?と風当りが強かった時代だった。然し、そんな世間の冷ややかな目を気にする事なく自分を引っ張ってくれた唄い手の先生がいた。
そんなお陰で自分が憧れた津軽三味線澤田会の家元と肩を並べる舞台で家元が出演した次に私が唄い手の伴奏者として舞台にたった。これは当時考えられない事だった。
津軽三味線奏者の本来の姿
然し、これが津軽三味線本来の姿だ。明治から始まった津軽三味線の歴史は盲目の門付け芸人の歴史であったが現代では画一化された家元制度になっている。
津軽三味線を世に知らしめた中の一人、名人・高橋竹山にも多くの弟子がいた。中でも高橋竹与さんは二代目を襲名するにあたって家元竹山からは二代目で成功した者はいない!と言われたそうだが、やはりどうしても先代家元の演奏と常に比べられてしまう…。
私も津軽三味線を始めたきっかけが竹山の油の載った演奏に魅了された一人で生の舞台を3度も聞きに行ったほどである。だからあの演奏の素晴らしさは良く分かっているし真似しようと思っても同じ音は出せないものなのだ!
だから二代目竹山の名前の ”威光” を借りるのではなくむしろ自分の本名で活動するのが良いと思う。本来、津軽三味線は即興演奏が売りであるが自分のオリジナルな津軽三味線を作っていく事が独創性でこれで勝負すべきではないかと自分は思う…。
何故なら竹山は昭和の最後のボサマであり門付けを実際にして歩き、食う為に必死になって生きてその厳しさの中で育まれた音だからだ…。竹与さんは盲目でもないし本当の門付けの経験もない。だから音の真似は正確に出来てもこれをやならなければ食えない!という刹那が今一つ聴衆の耳に残らないのかも知れない…。
曲の演奏は綺麗に出来ていても魂の叫びを感じられない演奏は本当の意味で人様の心を動かす事は出来ないだろう。
津軽弘前の観桜会
地元津軽の観桜会は4月下旬から5月のゴールデン連休に開催されるさくら祭りがある。ここに10年近く毎年通って現地のプロ歌手に唄付けの勉強に通った。それは弘前公園の中にある演芸場で唄、踊り、三味線曲弾などの勉強にどっぷり浸かっていた。また地元の唄い手さんの自宅を訪ねて勉強させて貰ったのである。
本当の津軽三味線を弾くのであれば二度や三度くらいは現地を訪ね、つてを頼って現地の唄い手さんの自宅に唄付けの稽古にお邪魔して勉強するくらいの意気込みがあれば津軽の匂い(かまり)が演奏に出せるかも知れない…。
私はこうして津軽三味線を勉強しやがてトラック商売を辞めて独立して芸能プロダクションを起こす事になる!
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